2. Automotive SPICE 概論
Automotive SPICEは、車載システム開発向けのプロセス改善・能力判定のフレームワークです。ISO/IEC 15504をベースに、自動車業界特有の要求を反映して開発されました。プロセス参照モデル(PRM)とプロセス評価モデル(PAM)から構成され、組織のプロセス成熟度を客観的に評価します。
2-1 歴史と背景
Automotive SPICEの歴史は、自動車業界におけるソフトウェアの重要性の高まりと密接に関連しています。1990年代後半、車載システムの電子化が急速に進む中、サプライヤーによって開発されるソフトウェア品質の問題が顕在化し始めました。この状況に対応するため、欧州の主要自動車メーカーが中心となって、業界標準のプロセス評価のフレームワークの検討が始まりました。
黎明期(1990年代後半〜2000年代前半)
車載システム、特にソフトウェアの品質を向上するためのアプローチが自動車メーカー各社で検討され、車載システムを開発するサプライヤーに対して要求されるようになりました。ただ、このような課題と対策は、すべての自動車メーカーにとって共通したものであり、その対応として、欧州調達フォーラムの作業部会とSPICEユーザーグループによって自動車向けのSPICEであるAutomotive SPICEを策定する動きが始まりました。SPICE(Software Process Improvement and Capability dEtermination)は、プロセス改善と能力評価(プロセスアセスメント)のための国際規格ISO/IEC 15504であり、Automotive SPICEは、このISO/IEC 15504のフレームワークに基づいて策定されました。
標準化と普及期(2005年〜2010年)
2005年5月にAutomotive SPICEの最初のドラフトV2.0 が公開され、最終ドラフトV2.1を経て、2005年8月に正式版であるV2.2が発行されました。 当時の日本では、欧州完成車メーカーと取引のあるサプライヤーが、先行してISO/IEC 15504に基づいたアセスメント要求を受けてプロセス改善に着手していましたが、Automotive SPICEの正式発行によって、Automotive SPICEが利用されるようになりました。 そのようなニーズから、日本語版のAutomotive SPICE V2.2がビジネスキューブ・アンド・パートナーズによる監修により、2006年6月に発行されました。
Automotive SPICEの正式な発行に伴い、SPICEのアセスメントを行うアセッサーの資格制度を整備し、運用するため、intacs(INternational Assessor Certification Scheme:国際アセッサー認証機構)が設立されました。日本からは、情報処理推進機構とビジネスキューブ・アンド・パートナーズが設立パートナーとしてintacsを支援しました。以来、ビジネスキューブ・アンド・パートナーズは、設立パートナーに加え、intacs認定トレーニングプロバイダー、intacs日本地域代表としてintacsの支援を続けています。
一方、この頃の完成車メーカーの動きに目を向けると、HIS(Herstellerinitiative Software)と呼ばれるドイツ自動車メーカーのグループ(Audi、BMW、DaimlerChrysler(現Mercedes-Benz)、Porsche、Volkswagenの5社)が、サプライヤーに対する共通の要求事項として、Automotive SPICEに基づくアセスメントを掲げ、さらにアセスメント対象となる共通のスコープとしてHISスコープを設定しました。現在、HISは解散していますが、HISスコープは、その後のVDAスコープとして継承されています。 HISが共通の要求事項を掲げたこと、さらにこの時期にドラフトが策定中であった機能安全規格 ISO 26262の対応と合わせてプロセス改善が要求されたことによって、Automotive SPICEが急速に広まっていきました。
成熟期(2010年〜2017年)
この期間は、Automotive SPICEが業界標準として定着し、世界中で広く採用された時期です。日本、韓国、中国、インドなどアジア地域でも急速に普及し、多くのサプライヤーがAutomotive SPICEに基づくプロセス改善に取り組みました。 2010年までは、Automotive SPICEがV2.3、2.4、2.5とマイナーバージョンアップを繰り返しながら広まっていった時期ですが、その後、Automotive SPICEの策定はVDA QMC(ドイツ自動車工業会品質管理センター)の作業部会に引き継がれ、2015年にAutomotive SPICE v3.0がリリースされました。V3.0では、特にエンジニアリングプロセスの構造が見直され、プラグインコンセプトの導入によって、ソフトウェア以外の技術ドメイン(メカ開発、ハードウェア開発など)にもAutomotive SPICEが適用できるように広がっていきました。
2017年のAutomotive SPICE v3.1では、v3.0の課題を修正し、より明確で使いやすいガイドラインが提供されました。このバージョンは長期間にわたって業界標準として使用され、多くの組織がこのバージョンに基づいてプロセス改善を実施しました。
変革期(2018年〜現在)
2018年以降、自動車業界はCASEやSDVといった新しいパラダイムに直面し、Automotive SPICEもこれらの変化に対応する必要が生じました。特に、サイバーセキュリティ、機械学習、ハードウェア開発との統合など、新しい技術領域への対応が求められました。
2023年にリリースされたAutomotive SPICE v4.0は、これらの要求に応える大規模なアップデートとなりました。主な変更点には以下が含まれます:
ハードウェア開発プロセスの追加
機械学習システム開発への対応
プロセス構造の再編成と明確化
Automotive SPICE の歴史的変遷タイムライン
2-2 PRM と PAM の構造
Automotive SPICEの中核を成すのは、プロセス参照モデル(PRM: Process Reference Model)とプロセス評価モデル(PAM: Process Assessment Model)の2つの要素です。これらは相互に補完し合い、組織のプロセス能力を包括的に評価するフレームワークを形成します。
プロセス参照モデル(PRM)の詳細
PRMは、自動車業界のソフトウェア開発に必要なプロセスを体系的に定義したモデルです。各プロセスは以下の要素で構成されます:プロセスID :各プロセスを一意に識別するための記号(例:SWE.1、MAN.3)プロセス名 :プロセスの内容を表す名称(例:Software Requirements Analysis、Project Management)プロセス目的 :そのプロセスが達成すべき高レベルの目的の記述プロセス成果 :プロセスが適切に実施された場合に期待される具体的な成果のリスト
Automotive SPICE v4.0では、プロセスは3つの主要カテゴリに分類されています:
主要ライフサイクルプロセス群 製品やシステムの開発に直接関わるプロセス群です。
支援ライフサイクルプロセス群 開発活動を支援する横断的なプロセス群です。
組織ライフサイクルプロセス群 組織の目標を達成するためにプロセス・製品・リソースの資産を整備し継続的に改善するプロセスが含まれます。
Automotive SPICE v4.0 プロセス構造の全体図 (3つのカテゴリとその下位プロセス群の階層構造)
プロセス評価モデル(PAM)の詳細
PAMは、PRMで定義されたプロセスの実施レベルを評価するための詳細なガイドラインを提供します。PAMの主要な構成要素は以下の通りです:
プロセス指標(Process Indicators) 各プロセスの実施を評価するための具体的な指標です。以下の2種類があります: 1. 基本プラクティス(Base Practices):プロセス目的を達成するために実施すべき基本的な活動 2. 情報項目(Information Item):プロセス実施の結果として作成される成果物
能力指標(Capability Indicators) プロセスの能力レベルを判定するための指標です: 1. 共通プラクティス(Generic Practices):すべてのプロセスに共通して適用される管理プラクティス 2. 共通リソース(Generic Resources):プロセス実施に必要なリソース(人材、ツール、インフラなど)
2-3 Automotive SPICE の位置づけと適用範囲
Automotive SPICEは、自動車業界のソフトウェア開発における品質保証と改善のエコシステムの中で、特別な位置を占めています。その位置づけと適用範囲を理解することは、効果的な導入と活用のために不可欠です。
規格・標準との関係性
Automotive SPICEは、他の重要な規格や標準と密接に関連しており、それぞれが補完的な役割を果たしています:
ISO 26262(機能安全)との関係 ISO 26262は、自動車の電気・電子システムの機能安全に関する国際規格です。機能安全に関連する製品の開発の場合、Automotive SPICEのアセスメントは安全要求を含めた機能安全の合理的な実現が出てきていることをプロセス能力の側面から評価されます。
ISO/SAE 21434(サイバーセキュリティ)との関係 2021年に発行されたISO/SAE 21434は、自動車のサイバーセキュリティに関する規格です。機能安全と同様に、Automotive SPICEのアセスメントではその合理性がプロセス能力の側面から評価されます。特にサイバーセキュリティに関しては、Automotive SPICE for Cybersecurityとして定義されたプロセスが存在しており、これらを通じてより実践的な観点が評価されます。
実際の開発プロジェクトでは、開発対象の特性によって、機能安全やサイバーセキュリティの重要度が異なります。そのため、下図に示すように、Automotive SPICEと各関連規格の関係性は、プロジェクト毎に柔軟に解釈されます。
Automotive SPICEと関連規格の相互関係
相関関係の重要ポイント
補完的関係
各規格は独立して機能しながら、相互に補完し合い、総合的な品質保証を実現
プロセス評価の統一
Automotive SPICEが機能安全とサイバーセキュリティの要求をプロセス面から評価
特化した拡張
Automotive SPICE for Cybersecurityなど、特定領域に特化した評価プロセスの提供
統合的アプローチ
3つの規格を統合的に適用することで、包括的な品質・安全・セキュリティを確保
グローバルな採用状況と地域特性
Automotive SPICEは、世界中で採用されていますが、地域によって特徴があります:
欧州 発祥の地であり、最も成熟した市場です:
ドイツOEMはほぼ100%採用
能力レベル3要求が一般的
サプライヤー選定の必須条件
日本 独自の品質文化との融合が特徴です:
2010年代から本格的に普及
日本的品質管理手法との統合
詳細な文書化よりも実践重視の傾向
中国 急速に成長している市場です:
NEV(新エネルギー車)メーカーが積極採用
政府による推進政策
グローバル市場参入の手段として活用
北米 従来はCMMI中心でしたが、変化しています:
欧州系OEMの影響で採用増加
テスラなど新興メーカーは独自アプローチ
アジャイル開発との統合に注力
業界トレンドと将来展望
Automotive SPICEは、自動車業界の変革に合わせて進化を続けています:
ソフトウェア定義車両(SDV)への対応 車両機能がソフトウェアで定義される時代に向けて:
継続的デリバリープロセスの強化
OTAアップデート対応プロセス
クラウド連携開発の標準化
アジャイル・DevOpsとの統合 従来のV字モデルから、より柔軟な開発手法へ:
イテレーティブ開発プロセスの評価方法
継続的統合/継続的デプロイメント(CI/CD)の組み込み
プラグインコンセプトによる拡張性